のなかみのる先生インタビュー

プロフィール
のなかみのる
1957年9月8日生まれ
岩手県出身
漫画家
代表作に「ラジコンキッド」など
数多くの特撮・アニメ作品のコミカライズでも有名

インタビュー日:2021年3月29日
インタビュアー:アイピープラットフォーム 墨村ケイジ


のなか先生といえばオリジナルの「ラジコンキッド」と併せて「80年代コミカライズの雄」として認識されている方が多いと思います。やはり気になるところは「宇宙刑事ギャバン」連載の経緯からお伺いしたいと…

テレビマガジンの担当さんから「今度の作品は今までにない全く新しいヒーローになるので、漫画と劇画の中間・重い絵柄が欲しい!」という要望がありまして、私に声がかかりました。「将来的にあなたの財産になるような作品を描いて欲しい。」と。
同じ講談社の「少年マガジン」で新人賞を取った時期でもありましたので、編集部を跨いだ大抜擢でしたね。企画の段階から参加させていただきました。


ギャバンの企画のきっかけはバンダイ(当時はポピー)の村上克司さんの1枚のイラストから、というのは有名な話ですね。

当初まだ「刑事」でなく「保安官」だったかと記憶してます。デザインは衝撃的でしたね。とにかく線が多い。それで私に白羽の矢が立ったのかと。省略しませんから(笑)


前もって渡されるシナリオとかはどの程度まで参考にされましたか?


物語の流れがどの方向に向かうのかの確認はしますが、メインは渡されるデザイン・宣材・資料写真の方を参考にしてましたね。メインシナリオライターの上原正三さんからもテレビはテレビ、漫画は漫画と仰っていただいてたので。ただ、前もって渡される月4本のシナリオのうち、なるべく4本目を使うのは意識してました。一番目立つキャラクター(怪人)を使うのも。ネットの無い時代、子供たちにとっては雑誌が最新の情報源ですからね。
怪人に関してはこちらからも毎月デザイン案を提出していました。それが参考となったケースもあったかと思います。
撮影現場にもお邪魔させていただきました。主役の大葉健二さんとは意気投合しまして。


それは興味深いお話ですね。


彼は初の主役抜擢でこの作品に賭ける意気込みは大変なものでしたね。プレッシャーも大きかったと思います。私も漫画家として初の長期連載でしたので、ある意味同じ境遇というか。
こちらは漫画でしかできないポーズやアクション描写を心がけるわけですが、向こうもそれ以上を意識したアクションを展開する、しかもスタントも自分で。「命かけてます」と。その言葉どおりの撮影現場でしたね。ダムのロケでは5㎝ずれていれば壁にぶつかってすりおろし大根になってしまうようなシーンとか、バイクで疾走して直角に曲がるとか(笑)
「今から面白い事やるから見てて」って感じで。種明かしとしては道に前もって砂を敷き、そこを疾走して前輪を浮かせて後輪だけ接地させて曲がるという…
お互い「テレビじゃ絶対できないことやるよ!」「漫画じゃ絶対できないことやるよ!」といった感じでしたね。


まさに漫画と実写で切磋琢磨だったんですね。


ギャバンだけではなくシャイダーやジャスピオンも同様で、主演の円谷浩さんや黒崎輝さんともお話させていただきました。シャリバンは連載が無かったので後に主演の渡洋史さんから「なんで描いてくれなかったんですか?」と。編集部の決定で私のせいではないんですが(笑)


テレビマガジンではギャバンの次作「宇宙刑事シャリバン」の漫画連載は無くグラビアだけの展開でしたね。


シャリバンに関しては講談社側でテレビマガジンでの漫画掲載はやらない、という判断があったので、「ギャバン」には一切登場させませんでした。シャリバンの放送時にはイラストのみ担当してましたね。 それで、1年のブランクを経て「宇宙刑事シャイダー」の漫画掲載となったわけです。しかも、いきなり初回100ページ!という(笑)当時の担当さんに「できるだろ?」と言われて「できます、やります」と(笑)


別冊付録で100ページ!という力の入れようでしたね。内容もテレビ第1話の前日談で、読み応えがありました。
のなか先生が特撮番組のコミカライズで活躍された80年代はテレビマガジンやテレビランドなどの児童誌で、グラビアにより重点を置いて漫画のウェイトが段々減ってきた過渡期だったと思うのですが、限られたページ数の中で話を纏める苦労はいかがでしたか?


あの手塚治虫先生も「ブラック・ジャック」などでは非常に内容の濃いエピソードを毎週20ページほどで纏めていたわけで、限られたページ数で展開するのは漫画家として当然と考えていましたから。
それよりテレビマガジンがテレビくんのように誌面がワイド化された時の方が。描きにくいったらありゃしない(笑)


(笑)
そんな中、オリジナルの「ラジコンキッド」連載となるわけですね。


「ラジコンキッド」はおかげさまで大好評で、カラーページが増えたりサイン会を行ったりと充実していましたね。平行して特撮・アニメのコミカライズも継続していたのですが、メタルヒーローに関してはジャスピオンの後番組「スピルバン」の頃にはそろそろ潮時かな、と。
秋田書店では「TVアニメマガジン」でオリジナルの「妖怪パトロール タケルがきた」という作品が人気投票で1位を獲得してこれからという時に廃刊が決定して…児童誌受難の時代の始まりでしたね。


同じく現在では廃刊となった児童誌に徳間書店の「テレビランド」がありますが、「仮面ライダーSD」を連載されてましたね。


「仮面ライダーSD」に関しては石ノ森先生から「自由にしていい」とのお墨付きをいただいていたので楽しかったですね。担当者からは「本当ですか?大丈夫ですか?」と言われてましたが(笑)


石ノ森章太郎先生のお名前が出てきたので、影響を受けた漫画家の先生方とのエピソードなどお伺いしたいのですが。先生はダイナミックプロご出身ですよね?


はい。永井豪先生、石川賢先生には当然のように大変お世話になりました。思い出は挙げたらキリがありませんが…
デビューして15年、35歳ぐらいの時に体調を崩したりいろいろと行き詰まりを感じていたのですが、お二人とも「漫画を描け」と。前々から才能だけではいずれ枯渇するし、立ち止まる時が来るとは言われていたのですが、今まさに立ち止まっている時に改めて言われましたね。とにかく、漫画を描けと。それで半信半疑で漫画を描き始めると、不思議な事に何だか向こうから仕事の話がやって来る。そんな事が数度にわたってありました。やはり先生方には自分には見えてなかったところが見えていたんだなあ、と。


大変深いお言葉ですね。



手塚治虫先生からは「ちゃんと勉強していたら、50歳過ぎたら何でも描けるようになるから」と。これも半信半疑だったのですが、不思議な事に50歳になった途端にその意味がわかりました。ホントに何でも描けるんです。どんな依頼・要望にも応えられる、何でも打ち返せる。迷わなくなる、って事なんですね。その頃には手塚先生はもうお亡くなりになっていたんですが、先生の仰った通りでした、と。
一峰大二先生からは「漫画は『画』だから。子供たちにわかるように丁寧に丁寧に描きなさい」と教わりました。
そういった数々の先生方の助言で現在の自分がある、誰ひとり欠けていても今の自分は無かったという感があります。


貴重なお話ありがとうございました。まだまだお伺いしたい事はいっぱいあるのですが、時間も押し迫って参りました。本日の締めとして今後の展望をお聞かせください。


東日本大震災のあとイベント等で活動している「確忍者まん丸」に加えて、温めている企画はいっぱいあります。その中でも
「未来環境防衛隊エコロイジャー」
「宇宙農民U坊」 はぜひ形にして行きたいと思っています。

確忍者まん丸
未来環境防衛隊エコロイジャー
宇宙農民U坊

大いに期待しております。
本来ならボトムズなどのアニメのコミカライズや、何といってもサイバーコップのお話などもっとお伺いしたかったのですが、次回をお楽しみにということで…
本日はお忙しい中、誠にありがとうございました。

素敵なギャバンの色紙を描いていただきました!

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